琉球ガラスのはじまり
沖縄でガラスが作られ始めたのは1910年。薩摩の商人によって那覇に「沖縄硝子製造所」が開かれたのが、その始まりとされている。
当時作られていたのは、ランプのホヤや薬瓶、ハエ取り器など、暮らしのなかで使われるものが中心。材料には新しいガラス原料とともに、すでに廃ガラスも使われていた。
さらに10年後、1920年頃には福田硝子製造所、前田硝子製造所など新たな工場も生まれ、沖縄のガラス産業は少しずつ広がっていった。
しかし、その歩みが大きく途切れたのが第二次世界大戦だった。
1944年、那覇にあったガラス工場は戦火によって焼失。沖縄のガラス製造は、一度途絶えることになる。
廃瓶から再び始まったガラスづくり
ガラス製造が再び始まったのは1950年頃。
戦前から続く前田硝子製造所の流れを引き継ぎ、ガラス製造が再開された。その後、そこで働いていた職人たちが経営を引き継ぎ、1952年には、現在も那覇で製造を続ける「奥原硝子製造所」として新たなスタートを切った。
けれど、戦後の沖縄では、ものを作るための材料も資金も十分ではなかった。
一方、身近にあったのがコーラやビールの空き瓶。それを見たガラス職人たちは、使われなくなった瓶を砕き、窯で溶かし、新しい器へと作り変えていった。
それだけではない。同じ頃、沖縄の人々はパラシュートの生地からシャツが作られ、使われなくなったタイヤから島ぞうりを作った。
今なら「リサイクル」や「アップサイクル」と呼ばれる方法だが、当時は環境への意識からのアイディアではなかった。けれど、新しい材料が簡単には手に入らない状況だったからこそ、人々は身のまわりにあるものに新たな役割を与えていった。
ガラスづくりが、まさにそのひとつだった。
そして、この再生ガラスが、やがて「琉球ガラスらしさ」を形づくっていく。
新しい形との出会い
戦後の沖縄には、米軍関係者やその家族も多く暮らしていた。自国を離れて沖縄で暮らし始めた人々は、沖縄でガラス工場を訪れ、器を注文していってくれた。
パンチボウル、ワイングラス、水差し、モール瓶。
それらは、それまで沖縄の職人たちがほとんど作ったことのない形だった。
見慣れないものを、どうすればガラスで作れるのか。
職人たちは試作を重ね、自分たちの手で方法を見つけていった。新しい注文が入るたびに新しい形が生まれ、人々のリクエストに応えるなかで技術も磨かれていったのだ。
異なる生活文化との出会いが、沖縄のガラスに新しいデザインをもたらした。
そして1960年代になると、新しいガラス工房も次々と生まれ、沖縄のガラス産業は大きく発展していった。
再生から生まれた、色と表情
当時の原料、廃瓶は、琉球ガラスの見た目にも独特の個性を残した。
廃瓶を溶かして作るガラスには、小さな気泡が入ることがある。そして一つずつ手作業で作られることで、厚みや形にもわずかな違いが生まれる。
「気泡のないなめらかさ」や「均一であること」がガラスの美しさの基準だとすれば、当時の琉球ガラスはそこから少し離れた存在だったのかもしれない。
けれど、琉球ガラスを手にした人々は、その違いにも魅力を見いだした。
気泡も、厚みの揺らぎも、一つひとつ手で作られた器の表情として受け入れられていった。そして後には、気泡そのものを意図的に取り入れる技法へと発展していく。
色にも、再生ガラスの歴史が表れていた。
戦後初期の琉球ガラスには、オレンジ、茶、緑、水色、青、紫など、さまざまな色が現れた。その多くは、完成した器のために新しく作られた色ではなく、原料となった廃瓶がもともと持っていた色だった。
再生する素材によって生まれた色が、運命的にも沖縄の海や空、植物、夕暮れといった島の風景を思わせる色とも重なった。
島にあった素材から作り続けた先に、いつしか沖縄の景色を感じさせる特別なガラスが生まれていた。
琉球ガラスへ
1972年、沖縄が日本へ復帰したことを機に、ガラスを取り巻く環境も変化した。
それまで米軍関係者やその家族を中心に広がっていた市場は、日本本土から沖縄を訪れる人々へと広がっていった。
市場の変化とともに、技法や素材にも新しい動きが生まれた。
再生ガラスのなかに偶然生まれていた気泡は、やがて意図的に取り入れられるようになり、「泡ガラス」の技法としてガラス業界に定着していった。
さらに廃瓶以外に、原料を調合して作るガラスも増え、職人たちは色、形、技法の幅をさらに広げていった。具体的には、珪砂やソーダ灰、石灰などを調合して作るガラスが主流となり、使われる素材や製法は工房や作品によって異なる。
それでも、その歴史をたどっていくと、ひとつの流れが繰り返し現れる。「その時、その場所にある素材を見つめ、職人の手によって新しいものへと変えていくこと。」
戦後には、コーラやビールの瓶だったのが、現在は島で役目を終えた車の窓ガラスが「mado」という新しいガラス作品へと生まれ変わっている。
madoのシリーズに見られる深い色味は、車のスモーク入りバックドアから。そして鮮やかなアイスグリーンの色味は、サイドガラスから生まれている。
1910年に始まった沖縄のガラスづくりは、時代とともに材料も、作るものも、それを使う人も変化してきた。そのたびに職人たちは新しいものを取り込み、自分たちの技術へと変えてきた。
1998年、琉球ガラスは沖縄県の「伝統工芸品」に指定された。けれど、最初から完成された「伝統」として存在していたわけではない。
百年以上にわたって、沖縄の暮らしと時代の変化のなかで、少しずつ形づくられてきたのが琉球ガラスなのだ。